毒母の死
私にとって毒親の母が介護老人保健施設で死んだ。
遺品を整理した。
携帯電話のメールの履歴を見た。
母の誕生日にいくつか送られてきたメールのうち既読がついていたのは私からのだけだった。
私のあの「お母さんの勝利だ!お母さん大好き!」という言葉を読んだ母のことを改めて想像して大粒の涙がとめどなくあふれ落ち、とりみだし、まったく眠れなくなってしまった。
泣き崩れ、泣き叫んだ。
「いつまでも泣くな!」と頭をはたく母はもういないから、いくらでも泣ける。
誕生日のお祝いメールに返事はなかったが、この私からのメールが母にとって最後のメッセージとなった。
葬式を終え、初七日を過ぎ、過去の母に捕らわれている虐待サバイバーの自分を考えている。
よく「親も大変なんだよ」「あなたも親になればわかる」「いつまでも親のせいにするな」など言われたが、母のエンディングノートには「自分の死後知らせる人(母):知らせないで」の遺言があり、その通りにしてあるし、実際私から見た母方の祖母は母が抵抗できない人ではあった。
母も虐待サバイバーだということは、エンディングノートを見たらよりはっきりした。
母は自分の小学生の頃の通知表を取ってあった。
小学校の先生からは「素直で従順だが自分の考えを持っている。もう少し級友への言葉をまるくできないものか」などと書かれてあり、私は思わずほほえんだ。
母のあの鋭い言葉使いは私だけでなくおそらく物心つく前からのもので母に関わる人に、まんべんなく投げ与えられたものだったのだ。
返す刀で母もズタズタにされたことだろうことは級友からの卒業メッセージから読み取れた。
遺品整理で母の手書きのメモがいくつか見つかった。
<応援してるよ 無理するな>の母のメモと私からの「おかあさんいつもありがとう」の母の日のメッセージカードが隠すように棚の奥から出てきた。
私はまた大泣きした。バカみたいだ。
このメモはお棺に入れずにこっそり手元に母の写真と一緒に取ってある。
親が先に死ぬことは決して普通のことではなく幸せですらある。
実際に祖母より先に母は死んだのだ。
母の遺影はずっと私に微笑んでいてくれる。
もう、母は私の人生に干渉できない。
だのになぜだろう、父の中に、妹の中に、自分自身に母の影を感じるのは。
母と唯一といっていい仲の良かった期間は、私が家出して一人暮らしをしながらフリーターから正社員にしてもらえるほど自立していた間だけだったように思う。
父は母が腎臓を悪くして他界した話題になるたびに、「離婚しようとして家を飛び出していたお母さんはお腹におまえがいることを知って戻ってきたんだよ」、「妊娠中毒症でおまえを産んだことで腎臓はもともと悪かった」などと言う。
事実に違いないだろうし、前者の話は再三聞いていて、私もいつのまにか「自分が産まれたのは、両親を離婚させないためだ」と思い込むほどだったので、何も感じないし、むしろ「私の役目は終わった」と安堵した。
しかし、後者の言葉は初耳で、まるで私が産まれたせいで早く亡くなったかのような言いぐさに聞こえ、まだ心の整理がついていない。
虐待サバイバーとして親を責める段階ではすでにない。
むしろ大事なことは、アダルトチルドレンの自覚をして、「自分が産まれたことを無条件に全肯定されること&すること」なのではないかと思う。
承認要求を満たそうとする言動はみっともないという風潮ができつつある昨今ではあるが、産まれて既に半世紀がたつ私のような者が、いまだに産まれてきたことを親から承認されていない気分であるという方が問題なのではないかとも思う。
結果として、ついに私は母から愛されていたという実感のもてないまま、母は死んだ。
母の最後の誕生日、私からの「お母さん大好き!」に嘘はないつもりだ。
今日も温かいお茶をお供えして、お線香をあげ、笑顔の母の遺影に向かって私は祈る。
「おかあさん、みんなを見守っていてください。でも、もう私に干渉できませんね。おつかれさまでした。おかあさんのご冥福をお祈りします」
母の遺影は私にすら愛想笑いをふりまいていて、沈黙している。
あたりはかぐわしい香りに包まれ、合わせていた掌を下ろし、やはり少し涙がまだ出てしまう。
2021年3月14日風の強い日に記す