2018年9月29日土曜日

ゆっこの思い出話※長文です!

誰がアラフィフの愚痴りや思い出話を喜んで読んでくれるのだろうか?
 そんな疑問もありますが、今回載せるのは小学生から22歳までの思い出です。
 3千文字以上もあるので、暇な時に読んで飽きたらスルーでも全然大丈夫です。
 最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。


★小学生時代★
 小学生の低学年時ははつらつとした女子でしたが、高学年になり、「女の事件60分」という番組を見て、雷を撃たれたように罪悪感を覚えました。 
 なぜかというと、幼少の頃にスーパーに集団で万引きしていたのですが、その番組内で、そうした子供に母親が泣いて嘆くのですね。それから罪を償おうとする無駄な人生が始まります。 

 5年生の時に正義感からいじめられていた女子と友達になったのですが、いじめていたグループから誘われたら、あっさり私を捨ててそのグループに入ってしまいました。 
 ここで普通ならどう思うのか知りませんが、私が思ったことは、所詮、私が選んだ訳では無いクラスというものに期待してもしかたがないし、いじめられていた女子もそうだけど、周りも信用できないのだなということでした。それ以降、中学、高校、短大とクラスで友達を作ることは避けました。 

 今にして思えば、集団の中での立場を学ぶ機会だったのかもしれませんが、私は不信が先に立ち、たいていはクラブの友達と一緒に遊んでいました。 

 さらに、5年生の時は、大人の男性の変質者に狙われて、走って逃げたら走って追いかけられたり、スカートの下を覗かれたりして男性に対して怖くなりました。
それ以来男性恐怖症にもなりました。

 小学校の体育の時間にひとりでポツンとグラウンドの砂で絵を描くような子どもでしたが、飼育委員としては張り切ってやりました。

アヒルやニワトリやウサギの世話をよくしました。クラスの優等生がさっぱりやろうとせず、どちらかというと不良と言われていた人達が動物のフンまみれの毛布などを嫌がらずに一緒に洗ってくれたことは印象深い記憶です。足の不自由なアヒルのための毛布だったので、余計に印象として残されているのだと思います。何しろ、優等生のはずなのに、一度も飼育小屋に来たことが無いのはどういう訳なのか、今なら用事があるのかな、話をしてくれたらいいのにと言えたかもしれませんが、当時の私は声をかけることもできませんでした。

 また5年生の時は、親友のいる東大一直線を掲げる塾に入ることができたものの、授業についていけずノイローゼになり、たったの2カ月間で辞めたこともありました。その2カ月の間の全く分からない授業のテキストに落書きをして生れた漫画のキャラクターが高校のクラブで人気になり無駄ではなかったと今なら思いますが、辛い思い出です。
 
★中学生時代★
中学生の時に、明るくなろうと思いました。幸せなことに、私の寒い冗談を大笑いしてくれる友人ができて、とても楽しい時間を過ごせました。中学3年生の時に塾を2か所通いました。引退した教師の自宅で数人生徒が集まり各人好きな勉強をして疑問などは先生に聞いたりできる自由な塾と、進学塾だけれども、アットホームで面白い講師のいる塾でした。成績も伸びて、高校を選べる環境になったと私は勘違いをしました。

 高校受験は2か所受けました。都立高校と滑り止めの私立高校でした。どちらも受かりました。とても嬉しかったのです。
私は女子高である私立に行きたいと思いましたが、親から「あんたは公立でしょ!」と怒鳴られたようです。ようです、と書いたのは、妹があとから教えてくれたからで、その時の記憶が私にはありません。ただ、先生に都立の高校に行きますと言いに行ったのだろうか職員室からの帰りに見た掲示板に張り付けられた求人票の「缶詰工場従業員募集!住み込み月給9万円」という言葉は今でも鮮明に憶えています。

★高校生時代★
高校時代はクラブ活動に励み、仲間にも恵まれました。3年間とても楽しい思い出しかないです。都立高だけれども通学するのに私服でも別の高校の制服でもいい自由な校風で、生徒会の力も強く自治のしっかりした高校だったので、本当に幸せでした。今でも高校卒業した時の状態で、就職できていればよかったのにと思います。

高校2年生の時に日本はバブル全盛期でした。ただ、私はバブルもいつかははじけるだろうと不安になりました。進路を決める時に、第一希望の漫画家への夢は、美術教師のひとことで消えてしまいました。その言葉も友人から聞いたのですが、私に隠れて(?)、美大などに進む生徒の為の放課後授業をしていたらしいのですが、友人が「三鶴さんはいいのですか?」と訊いてくれたらしく、その返事が「三鶴さんは努力家だから(誘わない)」と言っていたよと聞かされました。

 「私は、努力家なのか。誘われないってことは、才能は無いと言われたようなものだ」と、今なら当時の私に、「先生の言葉を真に受けるな!努力できることこそ才能だぞ?!えこひいきする先生なんて放っておけ!自分の力を信じろ!根拠の無い自信からしか根拠は生れないかもしれないぞ?!」と説教をして煙たがられると思います。

だけど、まだ18年しか生きていない当時、先生の言葉は、未来の私への世間や社会からのメッセージに思えたものでした。先生のことをどこかで予言者として見ていたのかもしれません。


★浪人時代★
 大学進学について、父からは「理系に進学するのでなければお金は出さない!」と断言されていました。もともと美大に進める筈が無い。そう思わされてしまいました。なので、美術教師の言葉は二重にも三重にも私の夢を殺してしまったのでした。

 今なら当時の私にこう言うでしょう。「担任の教師が推薦してくれる仕事をしながら勉強できる企業に就職しとけ!」と。ですが、私がしたのは、両親の前で土下座をして、「浪人させてください」とお願いをすることでした。

 私は漫画を描く時に必要だと思うからこそ学校に来て授業を受けていたのです。少女漫画には、学園生活が沢山描かれており、実際に体験した方がいいと考えていたからです。

その延長線上で大学も考えていたのですが、夢は見る前に消されてしまい、しかも理系でないといけない。一年浪人して有名な予備校に通いはしたものの、東大受験生向けの教室では私が一番出来が悪く、後期に入る際に母と一緒に呼び出されて、「まだ来る気ありますか?」などと言われました。

一応、続けることになったものの、受験する意欲は正直なところ消えました。それから昼くらいまで寝ていたりして母に洗濯物を投げつけられたりしました。

私は生れて初めてバイトをしようと思いました。友人が紹介してくれたバイトに応募しました。すぐ決まりました。警備員です。無知な私は何をするのかまったくわからず、4日間の講習を受けました。

新しい環境に私はすっかり夢中になりました。仕事場というよりもサークル活動のようなところですよ、と先輩に言われました。親切にしてくれる先輩には、中学卒で高校は通信制を受けている人から有名大学に通う人までいました。仕事が終わると皆で遊びました。楽しかったです。
 
浪人時代の後半はこうしてバイトに明け暮れることになりました。両親はこの頃どう思っていたのか知りません。何しろ朝からバイト、夜は遊ぶという生活で、あまり接した記憶はありませんでした。ただ、この時に貯めたお金で予備校代は返しました。
 
そうこうしているうちに、職場の先輩や同僚から、「大学出た方がいいよ」という声を聴くようになりました。みんなが協力してくれて、仕事の合間に勉強をさせてもらえました。
 私は4年間も大学に行っても続かないかもしれないと思い、短大か専門学校の下見に行きました。専門学校の見学会に一人で行くと、「あなたひとりできたの?」と2人組の女子に笑われたので、こういう人の目指すところには行きたくないと短大に行くことにしました。無事、短大は合格し、バイトは継続しながら通いました。

 短大はコンピューターの勉強でした。一応理系なので、父も納得したようでした。
 そのパソコンでコンパイラを動かすと、エラーが出るもののどこが違うのかを探すのが大変で、「.」と「,」の違いで止まるのですから、どちらかというとあいまいな私にとって神経質なコンピューターとの付き合いは神経がすり減り、だんだん情緒不安定になっていきました。

動くか、動かないか。その二択しかない状況が続くので、動けば正義、動かなければ悪といったような変な考えも植えつけられたような気がします。今はそういう自己分析はできているので大丈夫ですが。

★新卒会社員時代★
 短大を無事卒業した後、就職したのは有名なメーカーの100%出資の子会社でした。その会社に決めたのは、そのメーカーの社員が眉をひろめて白い目で見るようなざっくばらんで自由な規則の会社で、ここなら私も力が発揮できるかもしれないという期待と希望が持てたからです。

毎日が楽しかったのですが、なぜか1年でうつ病になりました。上司に「おまえは考えるな!」と怒鳴られたりしたのは今でもショックな出来事でしたし、何よりも、定年までの給料などのレールががっちりひかれており、外から見た時に比べて自由さが薄れたからかもしれません。でも、一番の理由は私の能力不足だと思います。

※いつか続き書きます。
※尚、この中の意見はあくまでもゆっこ個人のものです。



下の拡散ボタンで、応援を!